2011年2月アーカイブ

キャスターだらけ

我が自宅には木の箱がたくさんある。
野菜を入れておく箱。
レコードを入れておく箱。
最近買ったばかりの本や雑誌を入れておく箱。
読み終わった新聞紙を入れておく箱。
テレビ台の箱。
きれいな紙や紐や箱をしまっておく箱。
箱だらけである。
全部の木箱の姿かたち大きさはバラバラだ。
そして全部の箱はころころ転がる。
つまりどの箱にもキャスターが付いているのです。
このキャスターたち、
一箱につき4つ取り付けなければならないので、
家はもうキャスターだらけなわけだ。
もともとキャスター付きの箱を買ったわけではない。
全てわたしが取り付けたのだ。
わたしはキャスターコレクターなのである。
パリの蚤の市で、ガラクタの中から探し出し、
日本のアンティークショップで探し出し、
たまにはモダンでおしゃれなキャスターを購入してみる。
キャスターの在庫が我が家にないとなんだかそわそわしてしまう、
完璧にコレクター心理である。
個性豊かなキャスターたちはもちろん高さもカタチも違うので、
当て木をしたりして取り付けるため、転がり方はブサイクなところがあるが、
わたしにとってはブス可愛く愛着たっぷり。
でも、です。
普段生活しているとそのキャスターたちは足下に隠れているので、
一向に見えないのです。
それでもひとつひとつが箱とその中身を支えてくれていると思うと
ふふ、と笑みがこぼれる。
かなり個人的な楽しみである。

空気を読むこととGPSについて

空気を読む」ということが盛んに言われるけれど、そもそも「空気を読む」とはどういうことか? 「その場の雰囲気を機敏に察知して、そこで自分に求められる言動をとる」ということでいいのだろうか? でも、そうだとしたら、自分の行動は全て自分が属する集団の総意に違わぬようでなければならず、一頃まで巷間広く叫ばれていた「個性」というやつを真っ正面から否定することになりはしまいか。というか、そもそも「空気を読む」という発想がにわかに登場したのも、無分別に謳われた「個性の尊重」の弊害を被ったものから噴出した反発かもしれない。

さて、「空気が読める」、「空気が読めない」のどちらが良いのか、と問われれば僕は間違いなく前者の方が良いと主張する。なぜか? 「空気が読めない」というのは、どう考えても非社会性の問題であって、「読めるけど、敢えて読まない」という反社会性とは区別して考えるべきだ。『金田一少年の事件簿』の、「犯人はこの通路を通らなかったんじゃない。通れなかったんだ!!」というセリフはめちゃめちゃ恰好良いけれど、まぁそんなことはどうでも良くって、まぁつまりはそういうことだ。

そして、なぜ「空気が読める」方がいいのかというと、「空気が読める」とは自分を俯瞰する視点を持っていることを意味するからだ。集団の中での自分の位置を外側から見下ろすもう一つの視点、いわばGPSの視点を自分の中に持つ。これは、社会で生きていく上で(もっと広義に言えば"生存戦略上")極めて重要なことだと思う。なんでそれが重要なのか、それは敢えて説明しないでおこう。説明しないと分からないようじゃあ、説明したところで分からないだろうから。。

知識はあいまい?

「洗顔料を使って顔を洗う時、Tゾーンは少し細かく、
頬やあごは撫でるように洗えばいい」と聞きました。
あんまりこすり過ぎると、肌が荒れてしまうとか。

「当たり前に知られている」と考えられるでしょうが、テレビで専門家が言うほどです。

当たり前であれば、いちいち言う必要はなくなりますよね。
間違ったやり方で行われていそうだからこそ、こうされるのです。

「いい」と思って行うことが実際大きな間違いだとは、よく聞くことです。
分かっていても、わたし達はそういうことを繰り返してしまうんですよね。

日常よく意識しているつもりでも、それは普通に起こります。

専門家によって言うことが違うので、専門家の指摘を守っていても起こってしまうのです。
ここに「時代の論が充分でないこと」が加わり、状況はさらに複雑で厄介になりますね。

その中で、わたし達は「正しい知識を信じて生活しているのです。
だから、知識については時間があれば、正しいかを日々追究して過ごしてみるといいです。

最初に書いたような美容の知識はとくに、失敗すると大きな影響を受ける可能性が強いですから。
さらに大きな事態を招いてしまわないよう、油断は日頃から禁物です!

知識は強い根拠の元で存在していても、意外とあいまいなままなのですね。

筋肉痛や寝違えた首の痛み

何年も前の話になるが、当時付き合っていた彼女と、
凄く些細なことで揉めたことがある。

それは「寝違えた首の痛みをどうやって治すか」。

結局「湿布を貼れば良い」ということで話は終わったのだが、
個人的には「出来るだけ患部付近の筋を伸ばし、
マッサージすべき」だと思った。

お互いの基本的な性格は全く異なり、
私はイケイケの体育会系、彼女はお嬢様育ちの温室系。

そのため彼女は痛いところがあれば、
スグに医薬品や医者に面倒をみてもらっていたそうだ。

ちなみに私は「気合い」という根性論で、
今まで大抵の痛みを解消してきたため、前述したように思ったわけです。

過去、足の小指をタンスの角におもいっきりぶつけ、
骨折はしていないものの、明らかに脱臼した経験がある。

その時も関節を無理やり引っ張り、定位置に戻してから、
木片と包帯で固定して治した。

根性論もここまでくれば立派なものだが、
実際に今その指を見ると、逆の足の指とさほど変わらない状態にまで治っている。

たぶん症状は脱臼であったから、
きっと医者へ行っても完全に元の直線を描くほどの結果は得られなかったと思う。

そういった経験があるので、痛いところは、
特に筋肉痛といった筋に関しては、癖や筋肉の可動域が狭まる可能性もあるので、
痛さを多少こらえてでも筋を伸ばすべきだと考えている。

つまり湿布やらは、そういった痛さの軽減や、
面倒くさいマッサージを省くための代替品だと今でも認識している

このアーカイブについて

このページには、2011年2月に書かれたブログ記事が新しい順に公開されています。

前のアーカイブは2011年1月です。

次のアーカイブは2011年3月です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。

カテゴリ

ウェブページ